放送礼拝 黒田先生
2019/10/28(月)
聖書箇所:サムエル記上18章1~4節
今日は、サムエル記から聖書が語る「友情」について、ダビデとヨナタンという2人の人物を通して考えてみたいと思います。今日読んでいるサムエル記のサムエルという人物は、紀元前11世紀ごろの預言者です。もともと神を信じるイスラエルでは、神が王であり、イスラエルの人々は神の言葉を、預言者から聞くことを通して、生活していました。つまり、サムエルは神の言葉を人々に伝える役割を持ち、人々のリーダーであったわけです。しかし、サムエルが年を取って彼の息子2人が後を継ぐと、息子たちは不正な利益を求め、賄賂をもらい、自分たちの役目をまともに果たさなくなります。それに対して、イスラエルの人々は不安・不満を抱いて神よりも、人間の王を必要としました。そこには、イスラエルの周辺の国々ではすでに人間の王が存在していて、それを真似したいという人間的な思いも含まれていました。そのような要求を神は良くは思いませんでしたが、人間の王を立てることを決めます。
神が選んだ王は、サウルという人物でした。彼は長身で美しい容姿を持つ若者で、親孝行な人物でした。サウルはイスラエルの初代の王となって人々を率い、周辺の国々と戦います。しかし、彼はその中で2度神の命令に背く過ちを犯し、それを心から悔い改めることなく、むしろ自分の世間的な面目を気にしたために、神はサウル王を退けて新しい王を立てようと計画しました。
その二代目の王に選ばれたのが、ダビデという人物です。彼は容姿端麗で、竪琴を綺麗な音で奏でる人物で、勇敢で、そして何よりも神を心から愛する人物でした。ダビデは様々な出来事を通してサウル王の家来となり、イスラエルの敵であるペリシテ人の戦士で3mあるゴリヤテを倒します。その後も神がダビデと共におられたので、出陣する戦い全てにおいて勝利を収め、イスラエルの人々にとって、ダビデは英雄的存在となっていきます。そのダビデを愛し、唯一無二の親友となったのがサウル王の長男であったヨナタンという人物でした。つまり、ヨナタンはイスラエルの王子にあたりました。今日の聖書箇所にあるように、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛し、自分自身の上着・剣・弓・帯をダビデにプレゼントします。当時武器や武具自体が貴重であり、ダビデは庶民出身で8人兄弟の末っ子ですから、それを手にすることは難しいことでした。そのことを考えると、この行動にはヨナタンのダビデに対する大きな尊敬と親愛の気持ちが込められています。
ここで記されている「友人を、自分自身のことのように愛する」とはどういうことでしょうか。人それぞれに、様々な形があると思いますが、1つ言えることは、友人のために「時間を使う」ことではないかと私は思います。私は教会に幼い時から通っていたので、教会の人たちから良く「祈っているからね」と励ましの声かけをしてもらいました。特に皆さんの様な中高時代には、それをうっとうしく感じることも少なくありませんでした。しかし、今考えてみるとそれは、教会の人たちがある意味友である私のために貴重な時間を割いて、私の進路のため・健康のため・信仰のためにいつも祈ってくれていたわけで、そのおかげで人生が守られてきたと考えると、感謝で一杯です。ヨナタンに関しても、プレゼントそのものというより、「ダビデに何が出来るだろうか」と考え、時間を割いたことに大きな愛が現わされているように思いますし、ダビデもそのことを嬉しく思ったことでしょう。
しかし、このようなヨナタンの思いとは裏腹に、サウル王ははじめダビデを信頼していたものの、次第にダビデを妬み・恐れ・ついには殺意を覚えるようになります。父サウルと親友ダビデの板挟みとなったヨナタンでしたが、ヨナタンはダビデを愛していたためにダビデを逃がし、父サウルにダビデを殺さないよう説得しようと試みます。けれども、サウルの心は変わりませんでした。父を見捨てるわけにはいかないヨナタンは、ダビデとの別れを決心します。そして、サムエル記20章にあるように、ヨナタンは町の郊外の野原へ行ってダビデに別れを告げ、2人は互いに口づけして激しく泣きました。これが人生最後の別れになると分かっていたからです。しかし、ヨナタンは最後には温かい言葉でダビデを送り出します。この後、ヨナタンは父サウルと共にペリシテ人との戦争で戦死し、ダビデはサウルからの逃亡生活の後イスラエルの二代目の王となりました。
今日見てきたダビデとヨナタンの友情はあまりにも美しすぎるようにも思えます。確かに私たちは友人と多くの時間を過ごす中で、沢山の喜びや楽しみを共有し、互いを支え合い・励まし合う素晴らしさを「友情」を通して経験しています。しかし、一方でどれだけ仲の良い友人であろうともなかなか上手くいかない時もあります。そんな時には、失望感や悲しみ・また時には怒りや憎しみ・裏切られたような感情さえ友人に対して感じるかもしれません。今まで過ごしてきた時間が無駄であったように感じることもあります。けれども、そんな時にはダビデとヨナタンの「友情」の中心に神がいてくださったように、私たちの友情の間にも神が中心にいてくれることを思い起こしたいと思います。「あなたがたの存在こそ、私にとって誉れ(誇り)であり、また喜びなのです」と聖書にあるように、神は私たち1人1人を深く深く愛してくれています。そしてたとえ私たちがどれだけ自分本位に生きようと、どれだけ自分のことを愛せないとしても、愛の故に神は私たちのことを「諦めない」でいてくれます。イエスキリストの十字架の死による犠牲は、その究極の例です。「1人1人が神の最高傑作である」という神からの視点に私たちがもし目を注ぐならば、友情においても、どのような人間関係においても、当然そこには様々な葛藤はあるでしょうが、しかし「諦めない」ことを私たちはきっと大切にできるようになります。なぜならば私たちにはいつも、私たちのことを「諦めない」でいてくれる神がいるからです。
このダビデとヨナタンの友情には、サムエル記下9章に記されているように実は続きがあります。ヨナタンの死後、王となったダビデはヨナタンの生き残った1人息子を養い、さらには土地まで与えます。彼は両足の不自由な人物でした。ダビデにとって、前の王であったサウルの家系の人物は、自分の王の地位を脅かす可能性があるために、当時のやり方でいったら、皆殺しにしてしまうのが一般的でした。しかし、ダビデはサウルの家系の者を生かすどころか、養うほどに丁重に扱いました。それは、生前のヨナタンとダビデが、これから先ダビデが王になった時に、何があったとしても、ヨナタン自身や彼の家族・子孫を助けると契約を交わしていたからです。自分の王子としての地位を投げ出すほどに良くしてくれたヨナタンにダビデは、生涯誠実の限りを尽くしたのでした。





