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2020.12.15 / 学校生活 /

放送礼拝 石原先生

ヨハネによる福音書812

 今年も残す所2週間余りとなり、今年一年を振り返るのに丁度よい頃になりました。今年は新型ウイルスに始まり、新型ウイルスで終わる、特別な一年でした。今年の流行語大賞のノミネートも、ほとんどが新型ウイルス関連のものでした。

 私はこの特別な一年だから「はまったもの」があったり、気づいたこと、考えさせられたことがあり、それはそれで自分のためになっていると思っています。まず、遠くに出掛けられませんし、人の込み合う場所・時間は避けなければなりませんから、自分の家の近くを、夜でもなく、朝でもない、そんな一日の狭間に歩くのが自分のルーティーンとなりました。雑踏の喧噪が一瞬消え、闇と静寂に包まれたこの時間は、自分を見つめたり、ふとよぎるものに思いを馳せることに向いています。道端や川岸に咲く花にも詳しくなりました。春のカキツバタや秋の彼岸花など本当に綺麗です。

 実は近くにありながら、自分の思考の圏外に追いやられている物がまだまだ多くありそうです。私たちは目に映るものは何でも「見えている」と思いがちですが、それはおごりであり、本当は多くの大切なものを見過ごしているのかもしれません。また反対に、人の目には映らないだけで、本当は存在はしているものもあるのではないか。それを見る、または感じるためには、目ばかりに頼らず他の感覚を動員する必用があるように思います。

 さて、メディアはこの1年間、新型ウイルスに関する多くの情報を私たちに伝えてくれました。私たちはメディアから様々な感染防止対策を知り、それが国民一人一人の節度ある行動につながっているように思います。他方、私たちはメディアの報道によって信じられないようなパニック的な行動を引き起こしてしまうという弱さを併せ持つことも表面化しました。

例えば、トイレットペーパーが一時店頭から消えたり。人々が不安なときほど、フェイクニュースは真実味を帯び、加速度的に広がっていくことを、改めて知ることとなりました。

 私たちはなぜフェイクニュースを見抜けないのでしょうか。20世紀のカナダの哲学者・マクルーハンは「メディアは真実を歪ませる」という言葉を残しています。そもそも、事実と真実は似ているようで全く違うものだと思います。新聞に掲載されている写真やテレビで放映されるカメラ動画は確かに事実(本当にあった事柄)を映し出しているかもしれませんが、それが真実(本当のこと)かは別の問題です。写真や動画はカメラマンの目線・主観で撮られているものであるから、そう思わせたいという恣意的な切り口で切り取られたものかもしれません。私たちは写真や動画のような視覚に直接的に働きかけてくるものをとにかく信じやすく、視覚では捉えられない、形のないものを信じられないという傾向にあります。

数年前の熊本震災の直後に「動物園からライオンが逃げた」とライオンが道路に立っている画像とともにツイッターに投稿されると、一時市内がパニック状態になったという話があります。SNS 時代の今、誰でも画像や動画を撮影し、それを世界中に配信できます。仮にその写真・動画は自体は事実(本当にあった事柄)だとしても、私たちに真実を伝えようとしているかはまた別の話です。

情報の送り手は受け手がどういう反応を示すか想定した上で、それを送ることも可能です。歴史的にもドイツのヒトラーが映像を巧みに利用 して熱狂的な支持を得ていったことも忘れてはなりません。最近、私は SNS はおろかラジオもテレビもなかったはるか昔と現代では、どちらがより真実に近づけるか、という問いについてよく考えます。メディアがない時代は「噂話」のようなものも、メディアの役割を果たしたと考えられ、口伝いで、人から人へという形で情報が伝えられますから、「尾ひれ羽ひれ」がつき、真実を歪ませると考える人も多いかもしれません。

 しかし、先ほど紹介したマクルーハンは「メディアが真実を歪める」と 私たちに問いかけます。メディアがない時代は、画像も動画もないわけですから、その分想像力を働かせなければなりません。私は真実を見究めるのに最も重要なのは目ではなくこの想像力だと思っています。私たちは目に見える、目に映るものを真実とし、目には見えないものを真実から 遠いものとして排除する、その傾向が今後増々進んでいくのではと憂いています。

 最後に、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中の、キツネが王子との別れ際に送った言葉を紹介して終わります。「心で見なくちゃ物事はよく見えないってことさ、肝心なことは目には見えないんだよ」

 

 

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