放送礼拝 YWCAひまわり部
創世記1章27節
優生思想という言葉を知っていますか? 優生思想とは、生まれてきてほしい人間の命と、そうでない命を区別し、生まれてきてほしくない人間の命は人工的に産まれないようにしてもかまわないとする考え方のことを言います。
「こんな思想を持つ人がこの時代にいるのか」と思うかもしれませんが、身近な例として、出生前診断が挙げられると思います。出生前診断とは、生まれてくる赤ちゃんが先天的な病気や障がい、異常を持っているかどうかを出産前に調べる検査です。お腹の中の赤ちゃんの状態を知ることで妊婦さんや赤ちゃんの体を守り、それぞれの状況にあった準備をしていくために行われます。
しかし実際のところ、診断を受けて「赤ちゃんに異常がある」とされた人の9割が中絶手術を選択しているといいます。出生前診断には、もちろん当事者の様々な事情や思いが背景にあることは言うまでもありません。中絶手術という残酷な選択をしてしまう理由は何なのか、そのような選択をさせている一つとして、社会があるのではないか、だとしたら社会はどう変わるべきなのか、、、私たちはもっとこのような問題について関心を持ち、考えなければいけないと思います。
しかしどのような理屈があるにしても、出生前診断を受けた後の中絶手術という選択は、人を分類し「劣っている」とみなす存在を排除しようとする、優生思想と隣り合わせの行為だと私は思います。命の価値は皆同じです。生まれてくる前に選別される命など決してあってはなりません。
「命は皆対等で尊い」と人間は知っていますが、では、なぜ命は尊いのでしょうか。答えは聖書にあります。神様は6日かけて天地を創造されました。私たち人間は、6日目に「神のかたちに似せて」造られました。神様はご自分の命を捨てられるほど、全世界を愛しておられます。愛である神様によって、愛情をもって、一つ一つを唯一無二の存在として造られた命は、果たしてどれほど尊いものでしょうか。過去も今も神様から愛されている私たちの価値は、到底はかることができないものだと思います。また、神様の愛に一切の偏りがないのなら、神のかたちに似せて造られた私たちも、神と同じ水準の愛を持って人を愛するべきだと聖書は言います。私たちの学校聖句でもある「隣人を自分のように愛し合いなさい」というのは、障害の有無や国籍、人種、性別を超えた、人類愛だと思います。
人を軽蔑し差別することは、イエス様が、その人のために十字架で死なれたほど愛しておられる人を傷つけることになるのです。先ほど挙げた例だけでなく、様々な形と度合いの差別は何千年もの間人間の中に存在しています。現代を生きる私たちにも、そんなつもりはなくても、気づかないところでじわじわと根付いてしまっている部分があると思います。何気なく発したたった一つの言葉や行動が、誰かを傷つけてしまうかもしれません。自分と他人との違いを認め合うことは容易ではありませんが、変わらない神様の言葉に心を傾けることで、道しるべは見えてきます。聖書の御言葉を聞き、考える時間が与えられている私たちだからこそ、隣人への慈しみの心で思いやりのある愛を与えられるはずです。神様の愛で満たされるよう、また、あらゆる人の隣人となって生きることができるよう、祈り続けたいと思います。
神様、今日も新しい朝を迎え、皆と共に礼拝を捧げられることに感謝します。私たち人間は誰もが弱さを抱えていますが、どんなときでも、変わることのない聖書の御言葉を聞き、考え、隣人を心で思いやることができますよう、お支えください。また今月はキリスト教強調月間です。祈りを通して、私たちの思いとわざを広げ、平和を作り出す一歩となりますよう、見守り導いてください。この祈りを尊き主、イエスキリストの御名によって、御前にお捧げします。 アーメン。





