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2019.2.18 / 学校生活 /

放送礼拝 中原先生

「神の国に生きる」

マタイによる福音書6章31節〜34節

 

 私事で恐縮ですけれども、私が小さかった頃、私の父は私を驚かせたり、怖がらせたりすることが好きでした。私の実家は二階が礼拝堂になっており、小さくも、美しい礼拝堂で、幼かった私もその礼拝堂がとても好きでした。しかし、そんな大好きな礼拝堂も夜になると真っ暗になり、怖かったことを覚えています。そして、そんな私に父は、礼拝堂に通じる階段の踊り場におばけがいるのを見たと言っては、私を怖がらせました。そして、よく夕飯の後、「おい、一真、教会にあれをわすれたから、取ってきてくれ。電気はもったいないからつけるな。」というんです。おばけの話を聞いた後に、暗闇の礼拝堂に行くのが本当に怖かったのを覚えています。

 しかし、ある日の夜にまた同じように教会に私を行かせようとした父は、あまりにも怖がる私に対してこう言いました。「教会は神様がいてくださるところなんだから、怖いはずがないだろう。」この父の一言で、私は怖くなくなりました。自分を心から愛してくれている父がそう言ったのだから、絶対に大丈夫だという、子供らしい純粋な、父への信頼に基づいた安心感でした。 

 この経験を振り返って思うことがあります。人間の不安や恐れというものは、根本が解決されていなくとも、勝つことのできるものであるいうことです。どういう意味かと申しますと、幼い私は別に、幽霊はいないんだ、と思えた訳ではありません。いるかもしれないし、実際怖いのだけれども、最も信頼している父が大丈夫だというんだから、安心したのです。そういう意味で、お化けが出るかもしれないという根本的な恐れは何も変わっていません。しかし、父への信頼が、恐れに勝たせてくれたのです。恐れを乗り越えさせたのです。  

 話が飛ぶようですけれども、私の母教会では、ここ数年で、何人もの教会員の死を経験しました。なぜ、こんなに立て続けに、幾人もの仲間が……と憤りにも似た思いで問いたくなります。このように何人もの仲間の死を目の当たりにする中で、「ああ、人間とは本当に死んでしまうんだな。」と、変な言い方ですけれども、確信させられてしまいました。それも、喜びの確信ではない。悲しみの確信です。世の中に100%はないとよく言うけれど、人間の死ほど、100%、平等に私たちに迫ってくるものはないように思います。

 そのように、死というのは、本当に確かに、そして実に力強く私たちに迫ってきます。それだけに、私たちが真剣に死と向き合う時、私たちは恐れ、不安に襲われます。大小様々な不安・恐れがある中で、その最たるものは死であると、私は最近つくづくと思わされています。人生の一番最後に、待ち構えていて、それまでのすべてを、死という、かぎ括弧で括ってしまう、閉じてしまうのです。そのことは、口に出さないけれど、皆、分かっている。だからだと思います。限りある命を少しでも楽しもうと、何を食べようか、何を飲もうか、どんなふうに着飾ろうか、そのためにどれだけ収穫をあげて、どれだけ倉に溜め込むことができたか、そのことに常に心が傾くのだと思います。自分の命、自分の存在を維持するために思い悩む。その連続が、人生であると言っても言い過ぎではないように思うのです。しかも、その最後に、結局、死がすべてを括ってしまうのです。

 

 そのように思い悩む私どもを、主イエスは、心配してくださっている。今朝は、31節から34節までを読みましたが、これは25節から始まる段落の一部分です。その25節から読んでみますと、今申し上げたことが分かります。「自分の命のこと…命は食べ物よりも大切…寿命をわずかでも延ばすこと」というように、主イエスは「命」に関わる言葉を繰り返されます。あるいはまた、命と深い関係にある言葉として、「体」という言葉も繰り返されます。「そうやって思い悩んだからと言って、寿命を少しでも伸ばすことができるのか?」と。「できないのだから、気楽に、呑気に行こうや」と言われるのではない。 「思い悩むな!」とイエス・キリストは言われる。「どうしたらそんなことができるのだろうか」と問う。問いつつ読んでゆく。すると32節で「あなたがたの命に必要なものはすべて、父なる神が、ご存知だからだ」と言われるのです。全知全能の神が、あなたを心から愛するお父さんでいてくださり、あなたが自分の命に関して抱いている全ての思い悩みを知っていてくださるのだと、イエス様は断言しておられるのです。いいえ、知っていて下さるだけではありません。「あなたがたに必要なものはすべて、添えて与えられる」と言われる。何に加えて与えると言うのか。私どもが、神の国と神の義を求めて生きて行くとき、そこに一切の必要が、添えて与えられると約束してくださっているのです。「だから、心配するな!」と言われるのです。

 神の国とその義、それは一言で言えば、神の支配の元で、神様とのまっすぐな関係に生きるということです。神の国は、どこか空の高いところにあるのではないのです。この地上で私たちが今生きている毎日において、神様との関係、神様に支配していただく関係に生きるとき、そこに神の国が、すでにあるのです。そのことを求めなさい、と言っておられる。それこそ、人間が思い悩みから解き放たれて生きるために、最も大切なことだと、イエス様は心を込めて、私たちに語りかけられているのです。

 支配と聞くと、私たちはすぐに、息苦しいような感覚を覚えるかもしれません。しかし、神様の支配とはどのような支配でしょうか。皆さんは何度も繰り返し聴いているはずです。愛の支配です。私たちが、神様の愛の支配のもとで生きることができるようになるために、神様ご自身がこの地上に来て、十字架の上で死ぬこともいとわなかった程の愛です。文字通り命を懸けた愛です。しかも、神様の命です。その愛の支配の中で、私たちが生きて行けるようイエス様はこの地上に来られたのです。私たちはそういう愛の支配の元で、安心して生きるようにと、イエス様に招かれているのです。

 

 私は今朝の御言葉を読んでいて、実はそれとは正反対の姿を描く御言葉を思い出しました。創世記が語る失楽園の出来事です。神様は、エデンの園に、人が生きるに必要なすべてを備えていて下さいました。だからアダムとエバは、何一つ思い悩むことなく満たされて生きていたのです。しかし、神から顔を背けた時、彼らは楽園を出ざるを得なくなりました。そういう意味で、彼らは追放されたのではなく、神の支配、神の国から出ることを愚かにも自分で選んだのです。そして、私たちもしばしば、自分のこの命、人生は全て自分のものである、自分の好きなように生きて何が悪い、いまが楽しければそれでいいではないか、と大きな勘違いをして生きてしまう。その勘違いによって、自ら神の愛の支配の外へと飛び出すのです。そういう生き方こそ、実は私たちを思い悩みが連続する人生へと導くのだと私は思います。そういう人間を、神の支配のもとに連れ戻すために、イエス様が来られたのです。私たちを愛しておられるから、思い悩みの中に生きる私たちを放ってはおけないのです。 

 このような、神様の本当に力強く、私たちに迫ってくる愛の呼びかけを聞く度に、私は心のうちに光が灯るのです。環境が変わるとき、大きな変化が待ち受けているとき、心のうちに不安が沸き起こる時、「父なる神様の支配に生きなさい!」と招かれる主イエスの御声を聞くからです。本当に感謝なことです。信仰に生きることは、本当に楽しいのです。

 18世紀のイギリスにジョン・ウェスレーという司祭がおりました。私はある書物を通して、このジョン・ウェスレーのある言葉に出会いました。「神は私のような罪人にも情け深かった。神が共にいてくださること、これに勝る幸いはない」と言う言葉です。私は、最初、キリスト者であれば、よく口にしそうな言葉だなあという感想を抱きました。しかし、その先に記されていたことを読みましたときに、私は心を打たれました。その書物は、ウェスレーの言葉に続けて、こう記していたのです。「これはジョン・ウェスレーが死を目前にして語った言葉だ。」自分がもう死ぬと確信したときに、果たして私はこの言葉を口にできるだろうか。心からそう言うことができたら、どれほど幸せだろうか、と思ったのです。

 しかし、これは私たち自身の力で勝ち取るのではないのです。今も生きておられ、私たちを命をかけて愛していてくださっている神様と、その支配に身を委ねて、信頼しきってしまう時に、まさに死への恐怖にさえ、うち勝たせていただけるのです。イエス様は、ジョンウェスレーだけを神の支配の元へと招き入れたのではありません。全ての人を、私たち一人一人を、招いておられるのですから、私たちもまた、どんなに大きな不安のうちにあっても、ジョンウェスレーと同じ言葉を心から口にすることができるはずです。またそう言うことのできる一人一人でありたいと思います。

 今朝礼拝を守っている私たちは、皆4月から新しい環境の中へと歩み出します。しかし、環境が変われども、主イエスは日々私たちを、神様の愛の支配の中へと招き続けていてくださいます。そこに生きる時、様々な思い悩みを乗り越えて、それ故に、のびのびと、明るく、しかも力一杯、一所懸命に歩くことができるのです。

 

お祈りしましょう。天にまします父なる神様。今朝も礼拝をもって1日を始めることが許されています幸いを感謝いたします。あなたの愛の支配を、心から信頼して生き切ることのできない頑なさ、強情さが私たちのうちにあります。そしてその頑なさが、自らを不幸せにしていることにも気がつきません。そんな私たちをお許しください。いつでも、主イエス様の十字架に現れているあなたの愛を見上げて、信頼しきって、この地上であなたの御国に生きる喜びを味わい知ることができますようにお助けください。このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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