1つ前のページに戻る

2019.6.03 / 学校生活 /

放送礼拝 中原先生

 

 

自分探し

使徒言行録9章1節〜5節

「本当の自分とはなんなのかわからない」随分前に、ある生徒がポツリと私にそう言いました。本人はにこやかな顔で言っていましたが、真剣な問いなのでしょう。この生徒との何気ない会話が私の心の片隅にずっとありました。そんな中、私は先日「ジェイソン・ボーン」という映画を見ていて、あるセリフが心に残りました。次のような言葉です。「お前は平安など見いだすことはできない。本当の自分を見つけるまでは。」主人公のジェイソン・ボーンは、過去の記憶がありません。記憶がないために、自分が本来何者なのかという事が分からず苦しむ。それを見つけるために、自分の過去に関する情報を、命がけで探るという映画です。本当の自分が分からない、自分がどういう者として命を与えられ、今生きているか、それが分からないというのは辛く、怖く、また不安であると思います。私にも身に覚えがあります。「私は何で今生きているのだろう。またこれからも存在していくのだけど、なぜだろう。」このような問いが、何の前触れもなく、突然心のうちにふっと沸き起こる瞬間が、学生時代何度もありました。このような問いは、言い換えますと、最初の生徒の問いと同じところに根っこを持っていると思います。

そういった問いに対する答えを見つけるためでしょうか、「自分探しの旅」などということをする人がいます。大学時代の私の友人も、世界を1人で回るバックパッカーのようなことをやりましたが、よく自分探しだと言っておりました。そのような旅は良い経験になると思いますし、私もやってみたいとさえ思います。しかし、自分というものが何であるのか、また、私たち人間というものが何であるのか、ということを見つけるために、世界一周しなければならないのであれば、私たちのほとんどは、自分が何者であるのかわからずにその生涯を終えることになるでしょう。

聖書は、人間とは何であるかを語る時に、旅をしろとは言いません。今朝お読みした聖書の箇所は、のちにパウロと呼ばれるようになる、サウロという人のお話です。ご存知の方も多いと思いますけれど、彼は熱心なユダヤ教徒でした。ユダヤ教徒ですから、イエス・キリストが、旧約聖書の語る救い主だとは認めず、まして、イエス・キリストが十字架にかかった後に、3日目に復活したなどということは、神への冒涜であると考えていました。そして、当時、主イエスキリストの弟子として、各地で福音を宣べ伝えていた者たちの迫害を、先頭を切って行なっていたのが、このサウロという人でした。今日の聖書の箇所の前の第8章に、最初の殉教者と呼ばれるステファノの処刑の場面が記されています。そこでも、サウロは立ち会っており、ステファノの殺害に賛成していたと記されています。そして、殺害に賛成するだけにとどまらない。実際に自らの手で、キリスト者たちを殺そうと、そう意気込んでエルサレムからダマスコというところに向かっている途中の場面が今朝の箇所です。調べてみますと、エルサレムからダマスコまでは約250キロあるようです。250キロと言いますと、この学校を出発して、東は茨城県、西は名古屋市までです。相当な距離を旅をしたことがわかる。その距離を、血眼でキリスト者の後を追って旅をするサウロという男の使命感がどれほど強かったか、よく伝わってきます。

このような迫害者サウロは、自分が何者であるかということをよくよく知っているつもりだっただろうと思います。自分が何者として、何のために生まれてきたのか、なぜ生きているのか、そして、これから何のために生きていくのか。このようなことを問われたならば、即座に、「ユダヤ教徒ファリサイ派の人間として、キリスト者を迫害することだ!それこそ私の生涯の使命である!」そう自信満々に答えたことだろうと思います。しかし、果たしてそうだったでしょうか。多くの方がご存知の通り、彼は聖書を代表するキリストの弟子の1人になり、今度は自分がキリスト者として、ローマ帝国に捕らえられるほどになっていくのです。その意味で、彼は自分が何者かということを理解していたつもりになっていただけで、真にはわかっていなかったのです。彼の理解は間違っていた。では、いつその自分自身に対する理解が間違っていたということがわかったのか。本当の自分とは何者かということを、正しく理解したのは、いつだったのか?それは、甦りの主イエス・キリストが、サウロに近づいてこられた時です。今朝の箇所でサウロは天からの光に打ち倒されて、主イエスが「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。私は、あなたが迫害しているイエスである」と語られる。甦りの主イエス・キリストご自身と出会っているのです。主イエスご自身に出会い、また、主イエスご自身が語られる言葉に触れた時、彼の自身に対する理解、これぞ私の使命だと思っていた理解が、打ち砕かれた。それも、サウロ自身が主イエスに近づこうとしていたからではなく、主イエスの側から、サウロに近づかれた。そして、語りかけられたのです。そのようにして主イエスを知ることができたとき、もはや今までの彼ではなく、主イエス・キリストとの関係の中で、自分自身が、何者であるのかを見出していく。パウロは、主イエスに出会ったときに自分を見出したのです。したがって、キリストに出会うこと、それがすなわち、人が、本当の自分自身を発見する道であることを、パウロは私どもに教えてくれているのです。そしてパウロは、主イエス・キリストの福音を述べ伝えることこそ、私の生きる意味、私が存在する理由だと発見するに至るのです。サウロはフィリピ人への手紙第3章8節以下で、次のように語っています。「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみなしています。キリストのゆえに、私は全てを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」こんな告白ができる人は、本当に幸いな人だと思います。

この山梨英和という学校が、130年間、どんなことが起こっても、皆さんのような学生と礼拝をすることを辞めず、絶えず聖書の御言葉を身近に置いて学校生活を送ってきたのはなぜでしょうか。それは、自分が何者であるかわからない、また、わかったつもりになってしまう者に、主イエス・キリストご自身が一人一人に近づかれ、言葉を語りかけてくださることを願ってやまないからです。主イエスが、みなさん一人一人に出会い、言葉を語りかけてくださるのを聞き取るとき初めて、私たち人間は、主イエス・キリストに知られている者として、自分が何のために生きるのかを知り、喜びと感謝のうちに、人生を歩んでいくことができるのです。そのような祝福を、皆さん、お一人お一人の上に切に祈ります。

月別
年別