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2019.12.16 / 学校生活 /

放送礼拝 石原先生

聖書 ヨハネによる福音書 8章12節

 皆さんはサルトルという人のことを知っているでしょうか。サルトルとは戦後を代表す るフランスの哲学者です。私がサルトルを知ったのは、大学の選択授業の「哲学」の授業です。小難しいイメージが災いして、私と同じ専攻の者で「哲学」の授業を選択した者はおらず、学部全体で 20 人くらいの少人数の授業でした。私はこういう授業こそ「大学っぽい」と思い、その門を叩きました。授業は難しいと言えば、その通りなのですが、考え方の幅が広がる感じがして、次第にのめり込んでいきました。それは担当の先生のキャラと策略に依るところが大きかったと思います。

 私はその先生が学生たちに哲学者の名前をつけて、学生を1年間その名前で呼んでいくことを知りませんでした。二度目の授業で、私の同級生の新津君が突然、「ニーチェ」と呼ばれ、ほどなくして私は「サルトル」と呼ばれることとなりました。大変困惑しましたが、なり切ることが肝心だと心に言い聞かせました。唯一の女子学生であったその彼女は「ボーボワール」。その風貌から「ソクラテス」や「ガンジー」と命名された仲間もいました。みんな先生の期待に応えるため、その気になって、なりきって、哲学の難しいテーマについても、積極的に取り組んでいくようになりました。学生たちも専攻の枠を超え、仲良くなり、特に「ボーボワールちゃん」と「ニーチェ君」と、行きつけの飲み屋で哲学論議をすることが多く、いまだに「ニーチェ君」とは年賀状のやり取りがあります。

 さて、私とサルトルとはそんな出会いであったわけですが、サルトルの言葉で有名なのは、「実存は本質に先立つ」という言葉です。サルトルはよくその説明のためにペーパーナイフの例を使いました。ペーパーナイフは、便せんなどの紙を切るために作られたものです。この「紙を切る」というのが、ペーパーナイフの本質(=目的、役割)となります。ペーパーナイフは作られる前に「紙を切る」という目的があり、その目的のためにペーパーナイフが生み出されます。言い換えるとペーパーナイフは本質(つまり、目的)が実存(つまり、存在)に先だつということです。

 それに対し、人間はどうか。サルトルは「実存は本質に先立つ」、すなわち、人間は生まれながらに本質(=生きる目的)を持っているのではない、本質(=生きる目的)がある前に、実存(=存在)があるのだと言います。人間は生まれた時は、まだ何者でもなく、何者であるか、何者になるかは、「私はこう生きる」と決めない限り、本質自体がない、ということです。そこに「自由」の根源があります。

 しかし、何者になるかは自分次第であり、自分の人生は誰のせいにもできない、これをサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。確かに、自分で選び取った人生であれ、その一つ一つが結果となり、いずれ自分に突きつけられると考えると、それだけで不安になります。これが「自由の刑」なのでしょうか。自由と不安は常に隣り合わせであり、逆説的には不安であることが自分が自由であることを証明していると言えなくもありません。 逆に、自分の人生を誰かに決めてもらう、また、駅の改札に向かう群衆のように、みんなが歩いている方が目的地に違いないと、ただについていくのは、「不自由」ではあるけれど、考えずに済むので「楽」です。しかし、それが「自分の出たい方の改札」ではなか ったということはありませんか。

 「不安」と「不満」は似て非なるものです。例えば、カーナビがなかった時代、見知らぬ土地で、私たちは、どの道を行くか、自分自身で決めなければならず、目的地に着くまでは、その選択が正しかったのか、不安を抱えながらのドライブとなります。一方、現在は、土地勘がなくてもカーナビにしたがっていけば、何も考えることなく、不安など感じる余地なく、ちゃんと目的地にたどり着くことができます。ただ、カーナビが目的地ではない全然違うところに、または、めちゃめちゃ細い道に案内して、袋小路に入り込んでしまうということもまれにあります。即座に不満という怒りにも似た感情が湧き上がり、そのネガティブな感情は恐らく、自分にではなく、カーナビに向けられるのではないでしょうか。

 本来自分がすべき選択をカーナビに委ねておきながら、自分の思い通りの結果が得られないと、カーナビに不満をぶつけるような生き方はしたくはないものです。ですから、サルトルの言うように、「自由の刑」に処せられようと、自分で自分の未来を作り上げていく主体性を大事にすべきだと思います。

 では、自由な生き方を選ぶことで必然的に降りかかる不安にはどのように向き合っていけばよいのでしょうか。不満は現状に対しておこる感情ですが、不安の正体は、「未来」、や「未知なもの、いまだ経験したことのないもの」のはずです。「一寸先は闇」ということわざががあります。「一寸」とは約 3 ㎝ですから、いかに人間は、ほんのちょっと先のことにさえも恐れや不安を抱くものなんだということが分かります。

 私をふくめ、山梨英和で学んでいる私たちは「神様」がいつ、どんなときも、そばにいてくださることを感じながら日々過ごしています。神様に真剣に問いかければ、それにふさわしい答えを与えてくださることも知っています。ですから、「不安」や「孤独」を恐れるがあまり、自分を捨てて、群衆のなかのその他大勢になることはありません。さらに気を付けるべきは、群衆に生き方を委ね、自分を消しておきながら、その「不自由さ」を「不満」として充満させ、自分を窒息させることです。恐れずに進みましょう。 私たちの側にはいつも神様がいて、よい道を備えてくださるはずですから。

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