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2020.10.14 / 学校生活 /

放送礼拝 新体操部

ローマの信徒への手紙 第1214~15

 今日お読みしたローマの信徒への手紙第12章では、人が神様に救われた者として、現実をどのように生きていくのかについてパウロが語っています。今日の御言葉もその一部ですが、みなさんはこの箇所を読んで何を考えたでしょうか。自分と共に喜び、泣いてくれる人のことを考えたでしょうか。または、自分がこの言葉どおりに行動できているかについて考えたでしょうか。

 私は、ここの箇所を読んだとき、1番に思い浮かべたのは、私が今まで続けてきた新体操を通して関わった、クラブチームや部活のメンバーのことでした。私は小学校1年生から今まで約10年間新体操を続けてきました。小さい頃から踊ることが大好きで、練習や大会のフロアで踊るのも楽しみにしていました。

 また、私は個人競技と同様に団体競技も経験してきました。新体操の団体の魅力は、個人ではできないダイナミックな演技ができ、練習の成果が出たとき、何倍もの感動が生まれる部分だと私は思います。しかし、チームで披露することヘのプレッシャーを感じ過ぎてしまうと、なかなか良い演技はできません。私は昨年国体に出場したときそれを実感しました。メンバーに選ばれているという責任感と、失敗してはいけないというプレッシャーから、練習のときから失敗してしまったり、他のメンバーにも何度も同じ部分の練習に付き合わせてしまったりすることがありました。それでも嫌な顔せず、アドバイスをくれたり、励ましてくださった、先輩方は私の支えであり目標でした。

 また部活では同じ学年のメンバーと団体を組んだこともありました。意見がまとまらなかったり、結果が思うように出ず悩んだりしました。しかし、お互いに指摘し合える良い雰囲気で、結果がすべてではなく、それまで試行錯誤して努力するという過程の重要性をメンバーが教えてくれたように思います。

 様々な苦難をも一緒に乗り越えてきた新体操の仲間は私にとっては、まさに今日の聖書の箇所の共に喜び、泣いてくれるような存在でした。喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣くことは、簡単なことのように思える人もいるかもしれません。しかし、もし自分が不幸な立場にいるとしたら、他人の幸せを心から喜べる人はむしろ少ないのではないでしょうか。

 聖書には、苦しみや悲しみの中にある人に寄り添い、他者の喜びや悲しみに心を寄せて生きられた、イエス様の姿が記されています。私たちができることは、自分に寄り添ってくれる人の存在に感謝し、自分が誰かの隣人となり、支えるように心がけることではないかと新体操を通して気づくことができました。

 

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