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2019.1.28 / 学校生活 /

放送礼拝 加藤先生

讃美歌 520
聖書   マタイによる福音書9章 9節~13節

 イエス様を救い主と信じて25年近くになりますが、最近、信じた頃の原点に戻り改めて自分を見つめ直したり、また、謙虚に生きる事を考えたりする機会が与えられました。今朝、読んだ聖書の箇所はイエス様がこの世に来た目的が書かれています。マタイとイエス様との出会いを一緒に考えていきましょう。

 マタイとはこのマタイによる福音書を書いた人物です。マルコやルカによる福音書にはレビと書かれている人です。彼は税金を取り立てる徴税人であり、その税金は支配国であるローマ帝国のものとなるため、徴税人はユダヤ人からローマの手先とみなされていました。また、必要以上に税金を取って私腹を肥やす人もいて忌み嫌われていました。

 イエス様は嫌われ者のマタイに「私に従いなさい」と言われました。注目したいのは、マタイからイエス様に近づいたのではなく、イエス様の方から近づいてきたことです。
9節を読むとマタイは収税所に座っていて、イエス様は通りがかりに声をかけたとあるからです。きっと、マタイの心の内にある神を求める心、飢え乾きをご存じだったのでしょう。このように神様は今も私達の心の内をよくご存じで、神様の方から心の扉をたたいて下さるのです。

では、神様から声をかけて頂いたマタイはどのような行動をとったのでしょうか。
一切の説明もなくただ「従いなさい」と言われ、マタイは即座に従いました。ルカによる福音書5章28節には何もかも捨てて従ったと書いてあります。安定した職業や裕福な暮らしを捨てたのです。すぐに従ったのはイエス様なら自分の心の悩みを解決して下さると感じ取ったのでしょうか。こうして、イエス様の弟子となったマタイは十二使徒の一人で、この福音書を記すことになり、神の国の祝福が広がっていきました。

 このマタイと対照的なのは11節に登場してくるファリサイ派の人々です。ここでの「罪人」とはいわゆる犯罪者ではなく神の律法を守っていないという意味です。ファリサイ派の人々は厳格に神の教えを守る正しい人間と自負し、律法を守れない人達を見下して「罪人」と排除していました。13節では、イエス様はそのような人でなく、罪人であることを自覚している人々を救いに招くために来たと告げました。ファリサイ派の人々は形式的には決まりを守って礼拝を捧げていましたが、肝心のあわれみの心が欠けていたのです。

 皆さんはファリサイ派の人々と、罪人とどちらに似ていると思いますか。またはどちらの気持ちが分かるな~と思いますか。喩えて言うなら、自分の正しさの枠に人をはめようとし、その枠に入らない人を軽蔑して排除するファリサイ派でしょうか。それとも自分の心の中の罪の問題に気付いた罪人でしょうか。どうですか。私自身、洗礼を受け神様に従った者でも時々、ファリサイ派になってしまいます。罪とは何と根深いものかと反省します。そのような時、神様に悔い改めの祈りを捧げます。  

 最後に今日、皆さんの心にとめてもらいたいことをお話しします。神様はご自身から私達に近づいて下さること。そしていつも私達を神の国に招いていることです。私達はどのように応じたらよいでしょうか。今朝読んだ聖書のマタイの行動を人ごとではなく、自分にあてはめて今一度、自己を見つめ直しましょう。また、罪ということは何でしょうか。その罪から救って下さるためにイエス様がこの世に来られたことを日々、考えて祈っていきましょう。

お祈りします
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

愛する天の神様、あなたの御名を賛美します。今朝は放送を通して、マタイがイエス様と出会った聖書の箇所を読みました。私達をお創りになった神様は、口に出さなくても私達の心の内をご存じです。心は優しさ、思いやりなど美しいものもあれば、自己中心的や虚栄心、傲慢、偏見など醜いものもあります。それが罪です。だから、すべての人間は罪人といえるでしょう。イエス様は罪人を招き、罪から私達を救って下さる救い主です。
マタイのように神様の招きに応じることができますように、お祈りします。
寒い日が続いています。神様が私達の健康を守り日々の歩みを支えて下さい。
このお祈りを愛するイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

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